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聖諦.jpg

​内容は、ehescbook.com α へ。

四六版 640ページ

​2200円+税 2020年11月

​ISBN 978-4-910131-04-7

​ 2420円(税込)送料込

(今回は通常判型で作りました。

​したがって定価を落とせました。)

著者から

自分の好みを述べています。

思考・思索のもとになっている、感覚や情緒の「好み」の世界です。

「情緒」へ迫っていくためには、自分が何を感じて物事をなしているのかをある程度客観化していかないと、何が問題なのか一般論で処理してしまうことになるゆえ、あえてこの作業をなしました。情緒から、情感、感情、情念、情趣などといったものが疎外され、身体との関係から「感覚」そして「知覚」へと関与し、思考・思索が疎外表出されていきます。それらがどのような場所へ配置されていくのか、この書を書くことで自覚できました。思索・認識で、どうしても届かないものが常にある、その根源でもあります。

いちばん大きな発見は、<音>が関与していることです。「音痴」なのに音痴の状態を感知できる、「良い音」を見分けられる。この「できない」ゆえに逆に研ぎ澄まされるものがある、そこが認識への関係に非常に関与していることがはっきりしてきたことですが、認識なる思考次元は対象に届きえない。

例えば翻訳不可能を、イリイチとの初発の関係で感じてしまった根拠は、後に構文構造の本質的な違いとして理論的に認識されていきますが、語学が不得手であることから発生したことですが語学能力の問題ではない。フーコーやブルデューの邦訳をようシャアシャアとやるわという語学優等生たちの理論了解不在への呆れは、ただ非難ではなく、対象へ真摯にむきあうことへの怠慢への拒否です。

不可能さ」への自覚がとても大事だという情緒です。認識を規定している次元の向こう側です。

情緒表現をしていてさらに気づいたことは、「述辞」(動助辞/静助辞)がとても気になることでした。理論書を書いていてさほど感じていなかったことですが、今回はとても気になった。そこから、述辞が情緒表出に関与している、動詞や形容詞などの「詞」ではないという確信です。これは非常に本質的です。

好き」の背後には同時に<disgust>が関与し作用しています。<非−好き>で、ただの嫌いではない、微妙なしかし確実な感触です。

主語制表出と述語制表出との違いは理論的にはもうほとんど了解できているのですが、情緒論を通さないと退屈な文法言説になってしまう。言語表出として内臓系・体壁系に関わりながら、情緒論、情緒資本論への地盤が見つけられた作業です。「書かれえない」ことが逆射されてきました。

​こうしたことですので、読まれて、個人事情だと苛立たないで、普遍探究へのへの一つの試行

​知的資本が健全に作用するには情緒資本が極めて重要であり、また情緒資本だけを社会意識へ働かせると無知の横暴が闊歩します。相互関係を、主語的ではなく、述語的に作用させるにはどうしていくかへの回路づけです。

近代思考から脱しえないのは、情緒規定がもう固定してしまっているからで、認識スキームの問題ではないのだと思いますが、情緒・感覚を高度な言説行為へと深めていく通道を​開示したものともいえます。

​弱い大洋ホエールズをほんとに好きな自分が生み出していったわたしの理論なのだと・・・・優勝した後の感覚変化はほんとに堕落したなと感じたものです。ファン状態のくだらぬことではないと思うのですが・・・・

​因果関係ではない、相互性です。

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